PaintShopPro2021でエクスプローラーのpspimage,pspファイルのサムネイル画像表示が出ない時の対応メモ

Corel PaintShop Proを使っていて、エクスプローラーでpspimageやpspファイルのサムネイル画像がアイコンのままで画像表示がされないときの対応メモ。

PaintShopProをバージョンアップした時におかしくなったりするので、Windowsにサムネイル画像を表示する時に使うdllを教えてあげる。
Windowsのアプリ設定「ファイルの種類ごとに既定のアプリを選ぶ」でpspimage, psp ファイルについてはPaintShopProを既定のアプリにしてあることが前提。

Windows10 でPaintShopPro2021 64bit版を標準インストールで利用している場合。

    1. コマンドプロンプトを管理者モードでオープン
    2. コマンドラインで以下を入力し実行
    3. Windows再起動

regsvr32 “C:\Program Files\Corel\Corel PaintShop Pro 2021(64-bit)\PSPPThumbShellExt64.dll”

この世はありとあらゆるものが美しい

今年は年初の新型コロナ感染症のパンデミックにより公私とも生活が一変した。

そんな中10月にかけて「鬼滅の刃」の映画宣伝を頻繁に見かけるようになった。
在宅ワークのBGVとしてYouTubeを見(聞)飽きてこともあって興味が沸き10月下旬にAmazon Primeで流してみたところ、第1話の初っ端からガッツリ引き込まれてしまい在宅ワークの方がBGW(Background Work)になってしまうという恐ろしい事態を引き起こしてしまった。

原作者である吾峠 呼世晴さんの持つ世界観、ufotableの作画と3DCGによる映像クオリティーの高さで見事に術中にはまってしまったのだ。特に19話「ヒノカミ」を見た直後は興奮が止まらずネットでググり神回であることを知り何度も繰り返し見てしまった。コロナ渦で映画館に行けず、無限列車編に乗り込むのは映画か漫画の戸惑いの中、続きをすぐにでも読みたい術からは抜け出せず12月初めに電子書籍で全巻を購入した。途中さらに「【画集】『鬼滅の刃』吾峠呼世晴画集 -幾星霜-」や冨岡義勇のフィギュアまで購入してしまうすさまじい術までくらったが、漫画の最終巻23巻の最終話205話「幾星霜を煌めく命」を先ほど読了し余韻にひたっているところだ。

「先人からの連綿と紡がれた流れや想いの上に今の自分がいるということ」、「この世に生まれ落ちることができた幸福を感じること」、「まっすぐに前を向き助け合うことで困難を乗り越え精一杯生き抜いていくこと」、「苦しいときこそ人に優しくできる心を持つこと」、そして「好きな人や大事な人を想い人生の儚さ故の幸せの深さを知ること」という言葉を大正という誰もがロマンを感じてしまう時代を舞台として登場人物の古式ゆかしい一風難解な台詞を通して「自分とは?自分らしさとは?そのためにはどう生きるべきなのか?」と現代の我々の心の中に問う、それも圧倒的な力で格調高く射し込む、そんな素晴らしい物語だった。

話中の切り取られたエピソード紹介、話の区切りに出てくる作者の「大正コソコソ話」の設定解説を読むと本当によく練られたストーリーであることがわかる。ならばもっともっと多くの話数を使って可視化できたのではないかと感じるところもある。外伝ではなく吾峠さんの本編で楽しみたい。納期に追われる連載も終わり、いずれ心落ち着かれたときに最も精度の高い増補版がでてくることを強く期待したい。早く映画も見たいし、またアニメ化の続きも強く期待したいと思う今日この頃。

 

メモ。

アニメも映画も3D CGはAutodesk 3ds Maxを使っているとのこと。

AUTODESK 世界を虜にしたアニメ『鬼滅の刃』はどう作られたのか ufotableにしかできない作画とCGの融合 前編
AUTODESK 世界を虜にしたアニメ『鬼滅の刃』はどう作られたのか ufotableにしかできない作画とCGの融合 後編

後編で「CGクリエイターを目指す人にアドバイスはありますか?」への寺尾さんの回答はその職業を選んだ人の矜持が感じられ素敵に思う。

ETV特集・選「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」

ETV特集・選「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」

福島原発事故での医療現場における多くの失敗を伝え、その失敗を活かすことで次へつなぐ活動や自己の知見を現地で役立てようとされている方々が多くいて感銘を受けた。
その中でも山口芳裕医師の言葉が刺さった。
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2011年3月18日に東京消防庁へ派遣要請があり東京ハイパーレスキュー隊が福島原発の冷却に向かう。原発敷地内の線量の状況は東電側からは何の情報も得られなく、海水を汲み上げるホースのルートはがれきだらけで、ハイパーレスキュー隊員がその中をかきわけて実際に線量を測りながらルートを確保。限られた隊員数で許容線量を守れる範囲で作業するために前線基地で予行演習を実施した上で3/19に14時間の放水に成功した。これにより原発事故による東日本の壊滅的な事態を免れることができた。

隊を放射線被曝から守る役割を担った杏林大学 山口芳裕医師(東京都 特殊災害支援アドバイザー)の話。氏は1999年東海村JCO臨界事故の被爆者治療を担当した。その治療で目の当たりにした高線量被爆を受けて体が溶けていく朽ちていくという事態を回避するために隊に同行した。
『例えば(空間線量)が1,000ミリシーベルトになりますと、許容線量が100ミリシーベルトですから、そこに6分いたら100ミリになっちゃいます。ですから6分間しか隊員は働けないわけです。6分間したら次の隊員に入れ替えなければいけない。想定したシミュレーションをやってストップウォッチ片手にですね、これならその線量で帰ってこれるというのを確認した上で出動していきました。
政府の関係者から「100ミリシーベルトで隊員に不足が生じるのであれば、250ミリシーベルトにしたらどうだ」という意見がもたらされました。250受けてしまえば、その方は受けなかった場合に比べて必ずがんになりやすいという傾向が出てしまいます。ですから100ミリ以内に留めるのと250まで許容するのではリスクが全く違うわけです。私は専門家として250は許容できません。みんな100で帰してやってくださいということをお願いをした次第です。』

氏の振り返り。
『ともかくいわゆる殉職というようなそういうものや大きなけががなく活動を終了できたってことに本当に安堵した。果たして国家の側がそのこと(隊員の安全)に最大限の責務を払ってくれたのか、責任を感じてくれていたのかってところには、僕は非常に疑問を感じています。』
『(電力)事業者に対してはやはり最後まで「事業者責任」という言葉で、(国が)明確な手を打ってきていないところは、本当はですね、いろんなところが再稼働する前に国はちゃんと整理整頓しなくちゃいけないと私は思いますね。』

また氏は生きて帰ってこれないということを蓋然性をもって想定していたため福島原発へ向かう車の中から遺書となるかもしれない別れのメールを家族に出していた。
当時大学生だった息子さんからの返信。『死の覚悟を持って福島の地に赴かんとする父を誇りに思います。幾多の苦難を乗り越えてきた父上、必ずや責務を全うされることを信じます。どうかご存分の働きを。』

最後のナレーション(語り 吉川晃司)『8年前のあの経験を私たちは本当に教訓としているのだろうか。医師たちが撮影した3000にも及ぶ写真や映像はそのことを私たちに問いかけている。』
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当時「メルトダウン」じゃないと政府は言い張っていたが結局はメルトダウンだった。結局、先の大戦の時も同じで、終わったことを総括し処罰できない国の体制に問題があるように思う。
日本は長期的視点で論理的に考えまとめ上げることができてそれに責任感を持つリーダーや官僚がいない不幸な国である。

参照 honyaku : 東京消防庁 記者会見 (ほぼ)全文

阪神淡路大震災、あれから24年

あれから24年。

今一度当時の自分を思い返してみた。

その日はなぜか地震が始まる直前に目を覚ました。知らぬ間にこたつで寝ていたらしく、こたつの中から体を起こすと太い鉄パイプを叩いてパイプの中が共鳴音で満たされているような「フォーン、ゴーン」という音が窓の外でしていた。思い返すとこの音で起きたのかもしれない。
まもなく揺れ始めた。それはかつて経験したことの無い強い激しい横揺れだった。こたつごと揺すられ続け、立ち上がりたいんだけど揺れにあがなうことが一切できず、こたつの脚を持ちながら激しい揺れがいつまでたっても収まらないことで建物が崩壊する焦りを感じ「マジやばい」と思ったが、それもそう考えてるだけでどうしようもできない状況が続いた。その時は、本当に地球レベルでどうかしたんだと思っていた。

何日かして神戸の一般のお客様のフォローに入るべく志願し天保山の波止場から会社がチャーターした船に乗って神戸に向かった。神戸に着いて途中階が潰れた神戸市役所の横を通り、近くにあるお客様相談センターの窓口フォローに入った。ただ会社からは修理自体このセンターで受けずあくまで地域の専門店に誘導するようにと言われ、ボロボロになった服で懐中電灯用の電池をお求めに来られたお客様に対して乾電池一つ渡すことができず、とても歯がゆくすごくストレスが貯まり何のために来たのか相当頭に来た日々が続いた。電車が通じるようになってから、大阪へ戻る際に販売店実習で大変お世話になった王子公園にある専門店に立ち寄りご無事であることに安堵した。

当時、神戸(西神中央)へ工場移転するために新工場でのネットワーク設計やコンピュータ設備導入を担当していた。国道2と43号線の両方が止まっており山陽自動車道もまだ無かったことから通い慣れた県道38号線で向かうしかなかった。ただ当時はこのルートでしか神戸より西に向かえなかったこともあって大渋滞で何時間もかかり大変苦労したことを思い出した。

水タンクを宝塚までバイクで届ける時のこと。国道176号線も山本付近は道路の路肩が崩れ落ちてしまっているところも多く夜間は停電で電灯も消えていたことから安全な走路が見えず怖がって車がずっと立ち往生していた。ときどき見かねて誘導している人もいた。

当時の記憶は印象深いところを中心に断片的になりつつあるが、多くの方が亡くなり、生き残った人間は伝承する責務があると感じる。

Kのこと (2)

彼の死から半年たち、お墓参りに行こうという話が浮上した。

自らが窓口として心の中で期限を切っていたが、詳細がわからない中、彼の奥さんにどう切り出せば良いのかと会話の組み立てに悩んでいた。
たまたま内部倒産で新会社へ移った先輩を社で見かけ、一時期はKの上司でもあったことから、何か知っているはずだと思い話しかけてみた。先輩は、ここでは話せないからと廊下に出て2人で話をした。当然悪い予感がした。
2016年頃から休職を繰り返し昨年10月に自死ということだった。会社側は奥さんに連絡を何度か取ったが拒否され会社は彼の葬儀さえ出席できていないということだった。

これが引き金となり、少し想定問答を考えた上で、意を決し週末に電話してみた。
初めての電話はつながらず、なぜか安堵の気持ちが生じたが、一方、頭の中はもはや連絡が付かないのかという焦りも出てきた。そこで日曜日の夕刻に再び電話してみた。
しばらくしてつながった。旧知である奥さんの警戒トーンでの「はい」に対して挨拶した。
会社から何度か電話がかかってきていてその度ごとにお断りしていて、少し落ち着いたところだということだった。ただ今も心のゆとりは無く、年内は誰も受け入れられない。彼も来てくれたら喜ぶと思ってるが、お骨は家にあり納骨もしていないし、家でも簡易的な・・・、先で連絡くれと言うことだった。

一方的な話だったので、少し食い下がってみたが、会話からはとうてい受け入れられる余地がないように感じ電話をおいた。
電話終えてから食い下がったことに、まだまだ人間できていないと反省した。
みんなに連絡し、歳月が奥さんの気持ちを落ち着かせるまでお墓参りを延ばすことにした。いつのことになるだろうか。

彼との直接のやりとりのは減ったとはいえ、facebookや年賀状は毎年やりとりしていた。なぜ全く気づかなかったのかなという悔いが思い出寿命の間は残るんだろうな。

昨年暮れに喪中はがきをもらった際にfacebookの彼のページを見た。頻繁に書き込まれていて2017年のGWに家族でBBQを楽しく過ごしたと書かれていた。だから亡くなったのが信じられなかった。

改めて彼のfacebookを見た。
GWのその出来事が彼が書き込んだ最後となっていた。そして3月1日が彼の誕生日だった。1,000人を超える友人からのおめでとうのお祝いメッセージが新たに多数書き込まれていた。
律儀な彼は必ず返信するはずなのだがそこには何も書かれてなかった。本当に彼はいなくなったんだと実感し自分の無力感にも泣いた。

Kのこと

12/5の夕刻、facebook の投稿を知らせる通知がきた。自営業のTからで、喪中のはがきが来てたんですけどK本人が亡くなったんですね、とあった。

社内外のメンバーで昔から集うお昼は普通のビジネスマン、夜はムフフな必殺仕事人的秘密グループの中でええっ?が飛び交った。

みんながするように、すぐに本人のfacebookを見た。今年のGWから更新されていない。
驚きの反応をしつつも、今ひとつ完全に信じていない自分。

自宅に戻り、郵便受けを見ると奥さんからの喪中のはがきが確かにあった。
10月31日に夫が47歳にて永眠いたしましたと書かれていた。

自分の心の中で交錯するいくつもの疑問でおさまらず、言葉に出てしまう。
「なんで?何があったの?なぜ今まで知らなかったの?」

20世紀終わりからの付き合いで合コンにもよく行った仲だ。
構造改革で彼が別会社へ離れた後もメールで何度か近況を会話してた。
奥さんもかつては飲み会やBBQとか一緒にした知己だ。
10月末に亡くなって1ヶ月もたつ。
なぜ?

社内でも彼を知る人に聞いたが概要さえわからなかった。心の中がスッキリしないまま日が過ぎた。

先日の秘密グループの忘年会でも、みんなが聞いた話を持ち寄ったが、はっきりしなかった。
Kと同じ会社のメンバーはいないが、1人のメンバーが仕事上の付き合いからその会社の人に聞いたが、その人も理由は知らず会社自体での発表も無かったことがわかった。
みんなで話をして、奥さんが淡々と連絡してくるのは何か理由があるからで、こちらから墓参りしたいと連絡するのは49日たってからにしようと決めた。
色々、想像は膨らむが、今年一番悲しく寂しい話の会となった。

Kの奥さんの実家はお医者さんで、某所に別荘がある。そこでのBBQパーティは自然の中にあって格別に楽しめた。
夏のある夜だけ行われる夏祭りがあり、偶然参加することができた。山深い村で行われるお祭りは、映画のシーンのようだった。神社の境内に釣られた白熱電灯による薄暗い明かりはとても幻想的で、人もまばらで狐のお面を付けた人が出てきたらとても似合いそうな風景だった。夜店がいくつか並んでいて、みんなで色々食べて楽しんだ光景は今でも鮮明に強烈な記憶として残ってる。

彼はその光景の中に填まったままとなった。

「土の中で巡る季節 何度も君の名前を呟いてた」(rice “Hello”)

ほんと、また泣きそうだ。

ピンイン入力のためのメモ

■コピペ入力用

A Ā Á Ǎ À
E Ē É Ě È
I Ī Í Ǐ Ì
O Ō Ó Ǒ Ò
U Ū Ú Ǔ Ù Ǖ Ǘ Ǚ Ǜ Ü

a ā á ǎ à
e ē é ě è
i ī í ǐ ì
o ō ó ǒ ò
u ū ú ǔ ù ǖ ǘ ǚ ǜ

■Windows10 で IMEに中国語IMEを追加した際にインストールされる簡体字補助フォント

DengXian
FangSong
KaiTi
SimHei

標準は以下。
Microsoft YaHei
NSimSun
SimSun

Microsoft YaHei(微软雅黑)は日本のメイリオに相当する標準

プロフェッショナル仕事の流儀 猪子寿之

プロフェッショナル仕事の流儀
「革新は、チームで起こす デジタルクリエイター・猪子寿之」

すげぇ強い価値観を、特異な価値観を持った人たちが、何かどんどん世界を変えて、自分の価値観の方に、ちょっとでも世界が動くように何かして別に資本も、お金も無くても、何か、すげぇ努力と知恵と強い意志があれば、ちょっとでも世界が自分の価値観の方に動いたり、自分の価値観を守れたりしてんのがすごいなと思ったんでしょうね。

自分の価値観を大切にしていて、それを信じてるってことだ。

中国にいて感じたこと

「一人っ子政策」

中国で一人っ子を失った親がデモを実施したニュースが以前あった。

中国「失独家庭」100万の怒り――「一人っ子政策」が悲劇を生んだ

(一人っ子政策を推進していた)当時、政府は『一人っ子政策を守れば、老後の面倒をみる』と言っていたが、その一人っ子を失い、私たちの面倒を誰が見るのかという親のデモである。

中国の人と会話していて日本人と比べてとても親思いだなと感じることがとても多い。特に女の人と会話していると、必ず会話に出てくる。儒教精神、一人っ子政策時に組み込まれた子が親の面倒を見るという思想がうまく体現されているためか、親・祖父母をとても尊敬している。また子供は親にマンションを買って面倒を見るというのがデフォルトのように感じる。

中国は日本と同じく階層がある。ただし、ジニ係数は0.6(2012年)というほど日本と比較し格差がとんでもなく大きい。また日本と同じ最終学歴で職業、つまり収入が決まる。いわゆる下層に位置する人々は借金持ちが多く、その原因が親にマンションを買ったという話をとてもよく聞く。中国では簡単にお金を借りることができるようで、年収と借入金額を聞くと、その人が一生かかっても返せないんじゃないかと思う時がある。そういう人々ほど当然ながら、「お金」にとても執着している。

 

「お金より義を優先することもある」

今回、年初にNDAを締結した事案、オフショア先の会社の一部署を他社に売却する件で、今年は何回か中国へ行った。この事案を推進した部署は、売却先への全員の転籍を期待し、通常は以下の3つの選択肢で推進するが、この事案では[B]が無かった。

[A]会社に残って、他部署へ行く(日本同様、どの部署に行くかはわからない。中国では給料が下がることは無い。賞与は下がる。)

[B]経済賠償金をもらって退職する

[C]経済賠償金をもらって売却先へ行く(日本では転籍と言うが、中国には転籍という考え方が無い)

売却先へ行かず会社へ残ることを選択した人たちとの食事会があった。行くか行かないかは個人の選択で自由な中、ポジションが高い人ほど残る[A]の選択をした人が多かった。売却先が格下であるため「メンツ」を優先していた。会社に残ると宣言した親友を優先し部長のポジションを捨ててまで残ることを決めたTさんは、色々考えた結果、一生の友達(親友)と一緒にいることを選択し、私の理解を促すかのように冒頭の台詞である「お金より義を優先することもある」と言った。三国志の桃園の誓いを思い出した。

本題とはそれるが、「彼とは親友だ。」ということを本人を目の前にして言うことは今の日本では少ない。飲み会の席で親友に対してはっきり、親友だ、それも一生の親友だとは日本人感覚では相手に恥ずかしくてとても言えない。そういう深い人間関係を避ける、または避けるよう教育されてきたことが今の日本の色々な問題を引き起こしているように感じる。

 

「結局、どういうことなのか」

この食事会の後、売却先へ行く選択した人たちへそれとなくヒアリングし、すべて「お金」で選択していることを確認した。ポジション高い人で行きたくないが奥さんに「お金」のため行けと言われ行くしかないと言ってる人もいた。(中国は奥さんの意向が日本より強く働く。)売却先へ行く一番高いポジションの人は株もマンション投資もしない人で、親にマンションも買い、家族含め日々の生活が大変だ、そもそも行くしか選択肢が無いと言っていた。

2~3年前までは、中国に渡航する度に宴席では中国スタッフがマンションの所有戸数を仲間で競い、日本人である私に誇っていた。また株式市場も上がった。今でさえ、株式は下がり、中国経済そのものの先行きが心配されるが、過去に価値が上昇している中で着実に利益確定しお金を持っている人がいたわけだ。(私よりお金持ちがいっぱいで現時点で1億円ぐらい持っている人もいた。)

つまり中国人がよく言う「お金」と「メンツ」のうち、お金持ちが「メンツ」、貧乏人が「お金」を優先したということだったのだ。逆に「メンツ」を優先できる人が全体の人数の25%もいたことにびっくりした。残った中には「愛社精神」を言う貧乏な若い人が一部いたことを付記しておく。

 

最後に話は変わって、中国人と会話していると日本人は自分を律し過ぎていると思う。中国での生活の中で感じる中国人の持つこの自由さはなんなんだろうと中国にいると思う。

 

消防訓練 in 中国

ソフトウェアパークの消防訓練があるとことでMさんから参加しますかと聞かれ参加することにした。
放送がかかって非常口から集合場所へ集まるらしい。
今まで意識しなかった壁のドアが非常階段に通じていて、そこからビル内の階段を降りていく。
日本のような非常口ランプは無く、薄暗い中を前の人に当らないよう降りていく。
降りたところに広場があり、そこが集合場所だ。小冊子を配られた。

消防訓練で配布された冊子

その冊子に書かれている会社は、ソフトウェアパークを管理している日系企業だと言うので、Yahooで検索したところ確かに日本の企業の海外会社だった。集合場所では誰かがリードすること無く、また点呼などもなく、集合場所の真ん中ではなぜか抽選会が行われていた。
近づいて見ると女の人が集まっていて、抽選の箱の横には様々なぬいぐるみが置いてあった。抽選の度にきゃーと声が上がり誰かがぬいぐるみをもらっていた。

抽選会

人を集める目的で抽選会を行いプレゼントを配るらしい。さすが中国らしいと感心した。
ちなみに、抽選券は入居している各社の窓口である総務のようなところに配布されているらしく、その部署に縁が無いとそもそも抽選券がもらえない。
あと終わってから日本のような外れ馬券が舞い散るシーンは無く、下に抽選券が落ちていなかったことから、限定数の全部当たりの抽選券なのかもしれない。

その抽選が終わるまで、その姿を我々は遠巻きで見ながら雑談していた。
脇を見るとその間に、消火訓練や煙の中を歩いて行く体験の準備をしている。
ただ、セットアップ中の消火訓練の炎や、体感の煙は少し派手だ。一瞬出たあまりの炎のすごさに周囲も笑っている。

抽選会が終わると、消火訓練や煙の中を歩いて行く体験が始まる。しかし、その頃には、人はかなり霧散し、人影もまばらだ。
話のネタのため、かなり多めに煙がたかれているテントの中を通って帰って行く。このテントで渋滞しちゃうと死んじゃうなと
思いつつ。。

結局、少し散歩して事務所に戻った。散歩中、スタッフに多くあったことから、消防訓練はひとときの散歩の時間を兼ねている
のかもしれない。